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怪峰ジャヌー燃ゆ  (Jannu – 7,710m)  佐々木康之

ヒマラヤには数多くの名峰が存在するが、怪峰と呼ばれる山はこのジャヌー以外に存在することはあるまい。広い岩肩の両側から南稜、南西稜からは断崖のアイスフォールとなって氷河に落ち込み、南西稜はヤマタリ氷河の本流に直接達している。尾根と氷河が複雑に入り組んだ下部の地形、そして、その上部に怪物の頭を思わせる頂稜。妖気をも漂わせ、まさしく“怪峰ジャヌー"の名に相応しい豪快な山容を呈している。

その山ジャヌーはヒマラヤの山域ではカンチェンジュンガ山群に属している。カンチェンジュンガ山群はネパールの東端部とインドのシッキム州とに接し、世界で第3位の高峰カンチェンジュンガ (8586m)を擁し、南北に走る巨大な山脈でインドの避暑地ダージリンからも望見することができる。そしてその特異な山容は人呼んで“怪峰”、時には“眠れる獅子”と形容され、古くから有名な山であった。しかしこの山域はヒマラヤでも山麓までのアプローチが、ネパールの首都カトマンズより東へ275Kmと非常に長く、又その西側には長大なミルキア尾根が南北に延々と伸びている。故にアクセスとしての空路の定期便はおろか不定期便すら無く、まさに残されたヒマラヤの秘境となっている。

( 怪峰ジャヌー燃ゆ    ネパール・ヒマラヤ.ミルギン・ラにて )

私のヒマラヤ詣では意外と遅く65歳より始まり13年が経過、すでに78歳を過ぎてもう終わりに近づいていた。ただ“ジャヌー"への想いだけは実現が困難な山域とは解っていたが、何時も頭の端にこびりついて離れることはなかった。“ジャヌー”に逢わずしてヒマラヤを終りにして良いものであろうか……。想い悩むことが多くなっていた。

しかし世の中、不思議なものでヒマラヤ病に擢っている人々に意外と“ジャヌー"への想いを擁く人が多く存在することが解り、計画を打ち明けると事は簡単に進展、2007年11月、2人だけで出発することになった。食料は日本より調達、サーダーとポーターは何時もの手馴れた9名を手配し、我々の出発12日前にカトマンズより現地最奥の村グンサに向かわせ、写真機材40kgはへリコに積み追いかけ合流する。ことは意外と順調に進んだが、突然難聞が持ち上がった。

以前ヒマラヤ撮影に何度も同行した友人が突然現れ突拍子もない難題を持ちかけてきた。彼は現在癌を患っており闘病中であることは解っていたが、意外と元気であった。主治医の診断書を持参、どうしてもジャヌーに連れてってくれ、と直談判にやって来た。“ジャヌーを見ないと往生できない”と言って頑として引き下がらず、説得に時間がかかったが効果無く、計画を見直し、食料、酸素ボンベの増量、ポーターの増員など、ヘリコに積む写真機材は60Kgを超え、シャトルを余儀されたが3人で出発する事になった。

パンコック経由、雨期明けの11月首都カトマンズに着き追加食料の調達を終え、ヘリコでグンサに向かった。積載重量の関係で3,000m以上はシャトルで2回の往復となり、最初の便に私独りが乗り込んだ。高度を上げグンサ (3380m)に近づくにつれ驚いたことに既に雪が降ったらしく村は雪で被われており、ヘリコは雪煙を上げ着陸した。苦難を思わせる門出となった。

急遽、積雪対策をしてミルギン・ラ (4570m)を目指し出発することになったが、登山許可証の変更不備の為 3時間の遅れを余儀なくされ、大きなハンデを背負つての出発となった。樹林帯は積雪が凍結しており非常に登り難く難儀を強いられ、3時間の遅れが響いて高度が増すにつれ彼に遅れが出始めたため、酸素を吸わせることになった。そして夜間の登山を覚悟し照明の準備とサポートのポーターを呼び寄せたが、積雪が行動を阻み約12時間の行程となり、夜8時シェレレ(4180m)に着いた。避難小屋、小さな池もあり快適な幕営地であった。1日沈澱の後、再度高度を上げ、遂に峠のミルギン・ラ (4570m)に着いた。

長い事、夢にまでみた“怪峰ジャヌー"が妖気をも漂わせ、豪快な山容で眼の中一杯に広がっていた。西にはエベレスト、マカノレ一、と8,000mを超える山々が連なり、ここはまさしく天上の楽園と見紛うばかりの光景であった。そして何よりも3人無事に着いたことが最高の喜びであり、雪上にテントを張り正夢を見続けることになった。

“快峰ジャヌー”は朝、暗闇の中より厳かに白嶺となって現われ、夕方からは黄色、黄金色、薄桃色、薄赤色、赤色、燃える様な赤色、そして紫色となって消えてゆく、そのさまは大きな、荘厳な走馬灯を見ている様な感じであった。

闘病中にも拘わらずにこの正夢を見られたのは彼の執念であろう。無事帰国し、“燃える様なジャヌー”が日本山岳写真協会の公募展で、見事グランプリに輝いた、しかし9月の表彰式を待つことなく、白馬にて病の為帰らぬ人となってしまった、享年68歳。葬儀は8月の暑い、暑い夏の日であった。


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